動画と私、二人きりの食卓
最近自分の家で自分のことを動画で撮っている。
今まですべての感情をノートに出していたものを出来る限り純度高く残したいと思っていて、その一環で取り繕うことがノートより難しい動画形式で自分の声を残している。
今まですべての感情をノートに出していたものを出来る限り純度高く残したいと思っていて、その一環で取り繕うことがノートより難しい動画形式で自分の声を残している。
すでにいくつかの発見があった。
・私は普段食事の時に自分の話をしていないと言う事(自分のご飯が冷めた経験=こんなに自分のターンが続く経験は今までにはなかった)
・自分が上唇を動かさずに喋っているということ
・声に出して、思っていることを語ることがすごく苦手だと言う事
・私は普段食事の時に自分の話をしていないと言う事(自分のご飯が冷めた経験=こんなに自分のターンが続く経験は今までにはなかった)
・自分が上唇を動かさずに喋っているということ
・声に出して、思っていることを語ることがすごく苦手だと言う事
最後の話については、まずこの動画、動画を撮影しているiPhoneに対してどう接するか、自分の中の位置づけがまだできていないって言うことだと思う。
友達、気心知れた友達なのか
弱いところを出しても良い彼氏なのか
自分自身であって、それ以外どこに見せるものでもないものなのか
相手をわかりきれていないからこそ、自分の取り繕い方どんな自分で臨めば良いのかが分からなくなる。
そして、結局教室の前に立たされて、話をしなくてはいけない、そんな1番苦手な状況に自分を追い込んでいる。勝手に。
私はどこまでも生きることを簡単にこなせない人間みたいだ。
自分が部屋着を着てしゃべっている動画を撮ると言う滑稽なことにさえ、緊張しすぎ、考えすぎている。
私はどこまでも生きることを簡単にこなせない人間みたいだ。
自分が部屋着を着てしゃべっている動画を撮ると言う滑稽なことにさえ、緊張しすぎ、考えすぎている。